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岐阜地方裁判所 昭和62年(わ)161号 判決

主文

被告人を懲役二年六月に処する。

未決勾留日数中一二〇日を右刑に算入する。

この裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予し、その猶予の期間中被告人を保護観察に付する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和六二年一月末ころから岐阜市○○町○丁目○○番地○○荘二階五号室の被告人宅へ頻繁に無言電話が掛かるようになり、同年二月ころからは、被告人の弟である甲野太郎宅に無言電話や嫌がらせの電話が、また被告人の勤務先にも被告人を中傷する電話が掛かり始め、次いで同年三月に至り、被告人の弟夫婦を通じて右電話の相手から被告人に対し様々な指示が出されるに及んで、日頃これを苦にしていたものであるが、被告人はこれに対して、その指示に従えば無言電話などが今後掛からなくなるのではないかと考え、勤務先を辞めて自宅に引きこもり、胃痛や不眠に悩まされながら、電話を受けるほかは殆ど何もせずに暮らすようになつた。さらに、被告人は、同月二四日ころ、右無言電話の相手から指示されて頭を坊主刈りにし、娘二人の髪形を短かくしたりなどしたが、嫌がらせの電話は一向に止まず、再び同月二八日、無言電話の相手から、「坊主頭のまま頬に大きく紅を塗つて柳ケ瀬を歩け。言うとおりにしたら合格であとは終わりにしてもよい。」などと指示があつたため、被告人は、これに従つて翌二九日午前九時ころから一時間余り娘二人を連れ、恥しさをこらえながら指示された身なりで岐阜市内の繁華街である柳ケ瀬地内を歩いたが、相手の指示を一部実行できなかつたことから、帰宅後、このままでは無言電話の主からますます難題を押しつけられるばかりで就職もできず、子供らを十分に養育することもできないと一人思い悩み、こんな状態から逃れるためには自殺するしかないと思い詰めるに至つたが、自分一人で死んでしまえば、残された娘達を託すことのできる親族がいないため、娘達が施設に入れられることとなり、それも不憫であるとの気持ちがわき、いつそ、長女A子(当時一〇歳)及び次女B子(当時九歳)を殺害して自らも死のうと決意した。そして被告人は、同日午後五時ころ、前記○○荘二階五号室の被告人方勝手場兼寝室において、右両名を部屋の中で寝かしつけたうえ、ガス元栓が開放状態になつているガスコンロのゴムホースを引き抜き、さらに、玄関ドア及び奥六畳間出入口のガラス戸の隙間をガムテープで目張りするなどして締め切り、都市ガスを室内に充満させ、よつて右両名を殺害しようとしたが、被告人を訪ねて来た友人に発見されたため、その目的を遂げなかつたが、被告人は、本件犯行当時、心神耗弱の状態にあつたものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、被告人が漏出させた都市ガスは、天然ガスであり、天然ガスは人体に無害であつて、これを吸引しても人が死に至ることはなく、本件は不能犯であると主張する。そこで、この点について検討してみるに、証人村瀬進の当公判廷における供述、同人の司法警察員に対する供述調書及び倉橋勲ほか一名作成の捜査関係事項照会回答書によれば、本件で被告人が漏出させた都市ガスは天然ガスであり、天然ガスには一酸化炭素が含まれていないから、これによる中毒死のおそれはないことが認められるけれども、他方、前掲証拠によれば、この都市ガスの漏出によつて室内の空気中のガス濃度が四・七パーセントから一三・五パーセントの範囲内にあつた際には、冷蔵庫のサーモスタットなどの電気器具や衣類などから発する静電気を引火源としてガス爆発事故が発生する可能性があつたのであり、さらにガス濃度が高まれば、室内の空気が都市ガスに置換されることにより酸素濃度が低下して酸素欠乏症となること、すなわち空気中の酸素濃度が一六パーセント以下になれば、人体に脈拍、呼吸数増加、頭痛などの症状が現われ、酸素濃度が一〇パーセントから六パーセントを持続するか、またはそれ以下になれば、六分ないし八分後には窒息死するに至ることが認められるのであるから、約四時間五〇分にわたつて都市ガスが漏出させられて室内に充満した本件においては、ガス爆発事故や酸素欠乏症により室内における人の死の結果発生の危険が十分生じうるものであることは明らかである。そのうえ、本件において被告人自身が自殺の用に都市ガスを供したこと、判示犯行の発見者である乙野花子は、ドアなどに内側から目張りがされているのを見、さらに、被告人ら親子三人が室内で川の字に寝ているということを聞いたとき、被告人がガス自殺を図つたものと思つたと供述し、被告人宅の家主である丙野次郎は室内に入つた後、親子三人の中のいずれかの頭部付近が少し動いたのを見て、まだ死んでいないなと思つたと供述していることなどに照らすと、一般人はそれが天然ガスの場合であつても、都市ガスを判示のような態様をもつて漏出させることは、その室内に寝ている者を死に致すに足りる極めて危険な行為であると認識しているものと認められ、従つて社会通念上右のような行為は人を死に致すに足りる危険な行為であると評価されているものと解するのが相当である。さすれば、被告人の判示所為は、到底不能犯であるということはできないから、この点についての弁護人の主張は採用できない。

(法令の適用)〈省略〉

(裁判長裁判官橋本達彦 裁判官小林敬子 裁判官後藤 隆)

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